2009年06月26日

イラク戦争(イラクせんそう)は

イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月19日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となり、現在でもイラク国内での戦闘は行われている。
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戦争の名称は、戦争の場となった地名を付けるのが一般的だが(朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、イラク戦争という名称はアメリカ合衆国の立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、慣例であるとして否定する考え方もある。また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。

また、大規模戦闘終結宣言はアメリカ側が一方的に行っているが、終戦宣言は現在まで行われた事は無く、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてかウィキペディア英語版では、2003年の戦争を 2003 invasion of Iraq = 2003イラク進攻としており、現在の戦闘状況は Post-invasion Iraq, 2003?present = ポスト・イラク進攻 2003-現在と称し、合わせて Iraq war = イラク戦争としている。

アラビア語でもさまざまな呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争などとも呼ばれている。

2009年06月10日

各種世論調査によれば、大多数の日本国民は

各種世論調査によれば、大多数の日本国民は国旗国歌法の制定前から日章旗を国旗として受け入れている。一例として、テレビ朝日が1999年7月に行った世論調査では、日章旗を日本の国旗とすることに反対する国民は8%のみであった[14]。サッカーやバレーボールの国際試合において日章旗をモチーフとしたフェイスペインティングも一般化している。

沖縄における感情の変遷は独特である。日章旗は、1945年から1972年までのアメリカ軍統治時代には多くの住民のあいだで日本復帰を求める象徴で各家では日の丸を大切に所持していたが、日本復帰後には望んでいた昭和天皇の来島が叶わなかったことや日本政府の対米政策(米軍基地問題など)を巡る不満から、一転して日本政府への抗議の象徴として使用される傾向がある

第二次世界大戦後、国旗・日章旗の掲揚が公共機関等に限られ、各家庭や個人での掲揚が稀となった。そこで、祝日等における積極的な掲揚を勧める者もいる。

以下、例を挙げる。

産経新聞:祝日には、朝刊一面の日付右に、国旗マークと祝日名を表示(国旗マークの表示は祝日のみであり、振替休日・国民の休日には、国旗マークの表示はない。)
九州旅客鉄道(JR九州):2002年12月23日の天皇誕生日以降、すべての有人駅で祝日に国旗掲揚を実施
大丸百貨店:神戸大丸等で、祝日の際社旗に代わって掲揚。
大阪市営地下鉄・阪神電気鉄道:営業中の全種別全列車の、車内妻面(貫通扉上)に小旗の日章旗を2本交差する形で、1両の客室内に計4本取り付けられている。
日本国内の多くのバス運営社局:祝日に路線バスの車体に国旗を掲揚して運行している。振替休日・国民の休日には国旗の掲揚はしない。このことからも、国旗掲揚の意味は、単なる休日ダイヤであることの告知ではなく、祝日を祝う意味であることが分かる(ただし、神奈川中央交通など、国民の休日や振替休日・年末年始などに、休日ダイヤや臨時ダイヤで運行していることを告知するために使用される場合もある)。また、バスの日に掲載される場合もある。
このように、国旗掲揚は祝日に限っており、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日には、祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためだと思われる。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

国旗としての日章旗は多くの日本国民に受容されている。ただし、主に教育界で国旗掲揚が強制されているとする認識により(国旗及び国歌に関する法律#公立学校と国旗国歌について参照)日章旗に対する議論や批判はみられる。いわゆる左翼勢力である日本社会党・日本共産党・新社会党・日本教職員組合・全日本教職員組合、朝日新聞を中心に毎日新聞・中日新聞・東京新聞・琉球新報等でも国歌(君が代)とともに国旗である日章旗掲揚に対して希に批判的な記事が掲載される。ただし、これらの媒体においても、日章旗を国旗とすること自体への否定論は現在ではほとんど見ることはなくなった。

なお、かつては創価学会・公明党等が日章旗への批判を行うなど、日章旗への反発は比較的広く存在していた[15]。同じ敗戦国であるドイツが戦後国旗を変えていることと比較して、戦争責任論について語られることもあった[16]。日章旗そのものへの反対意見は今ではほとんどなくなっているが、強制とみなす立場から学校での日章旗への掲揚に反対する意見[17]は現在でも後を絶たない。

2009年06月06日

和船(わせん)とは、日本列島において発達した

和船(わせん)とは、日本列島において発達した構造船及び準構造船の総称である。極めて狭義の分類では、室町時代の遣明使船から江戸時代の弁才船に至る、「一枚横帆による帆走」と「船梁や船棚によって構成される船体構造」を特徴とする船舶のみを指すこともある

日本は船舶の設計思想において西洋の船と大きく異なる形の発展を遂げた。すなわち、西洋の船が応力を竜骨や肋材で受け、外板は応力を負担しない構造であったのに対し、日本の船舶は古代の丸木舟以来、外板が応力を受け持つモノコック構造だったのである。船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、平安時代の遣唐使船、諸手船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで、日本の船舶は全てこのような設計思想のもとに建造されていた。

和船とは、こうした基本構造のもとに、日本各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称なのである。

和船にだけあり、他のカヌーには無いという要素は存在しない。しかし要素の選択の傾向という点では和船は明らかに独自性を持っている。まず船体の構造について見ると、船底材に舷側材を棚の形で継ぎ足していくという点が、和船全てに共通する特徴である(ただしこうした特徴はミクロネシアやポリネシアの航海カヌーにも顕著なので、和船独自の特徴とは言えない)。船底材は最初期の準構造船においては単材を刳り抜いたものであるが、後に東北地方に多く見られるムダマハギ構造(単材から複数の船底材を刳り抜いてはぎ合わせる工法)に進化し、最終的にははぎ合わせた板材に棚を追加し船梁で補強する棚板造りへと進化した。

推進方法は帆、長櫂・車櫂(オール)、艪、練櫂・小櫂(パドル)、棹の5種類が用いられている。

帆は一枚帆という形式が多く、帆形は四角帆が主流であった。しかし打瀬船のように2本あるいは3本マストの和船も存在していたし、帆の下端を絞り込むことで逆三角帆とすることもあった。帆に使用されたのは江戸時代までは基本的にムシロであったが、江戸時代に工楽松右衛門が通称「松右衛門帆」と呼ばれる帆布を開発し、全国に普及した。
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日本においてはオールは長櫂や車櫂と呼ばれ、長櫂は瀬戸内海を中心に、車櫂は東北から北海道にかけて使用された。艪は東北から種子島までの範囲で用いられ、奄美以南では小櫂(パドル)が用いられた。

江戸幕府が船に竜骨やマストや帆を二本以上用いる事を禁じたという説があるが、特に史料的な裏付けはない。これらはあくまで利便性・経済的な理由を主としている

2009年04月23日

ネウストリア

ネウストリア (Neustria)またはネウストラシア (Neustrasia)は、511年に始まったフランク王国において新たな西の土地を意味する地域。アキテーヌからイギリス海峡までを指し、現在のフランス北部のおよそ全体、都市はパリとソワソンを含む。従ってネウストリアは、フランク人王国の西部を形成した[1]。6世紀から8世紀にはメロヴィング朝支配下にあった。この区別された一帯は、511年のクロヴィス1世の死後に彼の息子たちの間で領土分割が行われたことで生まれた。後に、セーヌ川とロワール川の間の地域がレグヌム・ネウストリアエ(regnum Neustriae)として知られる地域となった。これはカロリング朝、西フランク王国の従属王国として継続した。カロリング朝の王たちは、ブルトン人とヴァイキングに対する辺境公(Duchy)である、ネウストリア辺境侯領も創設した。この侯領は、カペー朝時代の10世紀末まで続いた。

ネウストリアは、ロンゴバルド族が北西イタリアを支配したのと同様の年月支配された。ネウストリアと対照となる北東部はアウストラシアと呼ばれ、同時代にフランク王国東部のことを指していた。

クロヴィス1世の子孫らによって定期的に領土再分割がなされた結果、200年以上の間多くの王侯が現れることになり、アウストラシアとともにネウストリアもほぼ定期的に戦禍に見舞われた。

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相次ぐ戦争にもかかわらず、ネウストリアとアウストラシアは数回事実上の再統合を経験している。最初は558年から562年まで治めたクロタール1世時代であった。ネウストリア女王フレデグンド(キルペリック1世妃)と、彼女の実子クロタール2世との勢力争いが続いたことで、苦い戦争が勃発した。

フレデグンドが死に、サン=ドニ大聖堂に埋葬されると(597年)、クロタール2世はアウストラシア女王ブリュンヒルダとの抗争を続け、ブリュンヒルダが家臣に裏切られた613年についにクロタール2世が勝利した。クロタールはブリュンヒルダを拷問台に縛り付け3日間放置させ、その後4頭の馬の間に鎖でつながせ、四肢を八つ裂きにした。クロタールはアウストラシアとネウストリアの統合を達成したが、これは短期間で終わった。

ダゴベルト1世(在位:628年-637年)時代、既に常態化していた戦争が別の同時期の統合という結果になった。アウストラシアでアルヌルフ家の宮宰大グリモルドが君主クロヴィス2世に対してクーデターを起こした。クロヴィス2世は大グリモルドを排除し、ネウストリアを王国へ再統合した。しかし一時的なものであった。クロヴィス2世の子クロタール3世の治世後、ネウストリアの王家は、以前のアウストラシアの王家同様、自身の宮宰に対し権限を割譲した。

678年、宮宰エブロインの治下にあったネウストリアはアウストラシアを征服した。エブロインは681年に殺害され、684年にエブロイン自身の土地であるポワティエの司教は、エブロイン最大の敵であった聖レオデガー(679年に殉教)の救済を依頼した。687年、アウストラシアの宮宰ピピン2世はトルトリー(現在ソンム県のコミューン)でネウストリアを退け、アウストラシアと別の側からネウストリアを統合させた。アウストラシアで暮らしていた年代記作者らは、自分たちの宮宰ピピン2世へさらに忠義を示した。

ピピンの子孫たち、カロリング朝の人々は、宮宰として2つの王国を支配し続けた。ローマ教皇ステファヌス2世の祝福を受け、751年以降カロリング朝のピピン3世は正式にメロヴィング朝を王座から追放し、帝国の実権を掌握し、彼と彼の子孫らが王として支配した。

ネウストリア、アウストラシア、そしてブルグンドは一つの権力の元で統合するようになり、ネウストリア、アウストラシアの名前は次第に消滅していった。

2009年04月22日

考古学

考古学(こうこがく)は人類が残した痕跡(例えば、遺物、遺構など)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。文字による記録以前(有史以前)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時期(有史以後)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。

考古学は、遺物の型式的変化と遺構の切り合い関係や前後関係による層位から出土遺物の通時的変化を追う個々の遺跡の編年を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の施文技法や製作技法、表面調整技法などの比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。

考古学という名称は、古典ギリシャ語のアルヒャイオロジアから生まれ、英語でアーケオロジー(archaeology)といい、それを訳して「考古学」とした。

日本では、考古学という言葉自体は明治初期に古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがハインリッヒ・シーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという。
アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流であるが、日本では従前より歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。

考古学の歴史
考古学は比較的新しい学問であり、18世紀末から19世紀にかけて地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ[3]やウイリアム・フリンダース・ペトリ[4]らによって組織的な研究が始められた。特筆すべき業績が重ねられいき、20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。

日本の考古学
日本では、動物学者であったエドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。第二次世界大戦が終わるまで日本の歴史学は、天皇制国家権力の厳しい監視下にあった。なかでも考古学は、皇国史観の歴史と真っ向から対立する客観的資料を学問の基礎に置くため、異常なほど厳しい社会的・政治的・イデオロギー的に制限が加えられていた。国立大学における考古学の講座は京都帝国大学にただ一つ存在した。帝室博物館などは、美術的・珍希的品々の収集と展示の場としてのみ存在した。このような環境において研究者は、皇国史観に積極的に妥協・追随する者も出た。しかし、一方皇国史観に反対し弾圧される者もいた。その他の大勢は、思想性を抜きにして、個々の事実に対する研究に終始した。そして、ごく少数であったが、戦後の考古学に継承するに足る成果を収めるものもあった。

考古学は皇国史観歴史や日本歴史とはまったく別個の存在であったために、天皇制と軍国主義は、考古学を活用する場を探し出すことができなかった。こういう中で、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧の中に「自由」を享受した。

それに対して、アジア各地へ出て行く日本人学者の考古学研究はどうであったか。そこには、興亜院・外務省・朝鮮総督府・当時の満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、また、神国的・侵略的史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの開放を願い、進んで大陸に出かけていった。

宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都大学に考古学講座がおかれた。浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。考古学における大正時代は、古墳研究の基礎資料の集積時代であった。

20世紀の間に、都市考古学や考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。

現代考古学の特徴
現代考古学の特徴としては、

他の学問分野(原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学、認知科学など)との連携がいっそう進んでいること
考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていること

2009年04月05日

二中歴

二中歴(にちゅうれき)は、鎌倉時代初期に成立したとされる事典である。

その内容は、平安時代後期に成立した「掌中歴(しょうちゅうれき)」と「懐中歴(かいちゅうれき)」の内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存するのみとなっており、二中歴がこれらの存在を知る手がかりとなっている。

掌中歴と懐中歴は三善為康(1049?1139)の手による、平安時代後期のものと推定されているが、二中歴の編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている。

尊経閣文庫本には順徳天皇の御代に編纂されたとあり、1210年?1221年頃の成立であると考えられている。

古代年号の記述 [編集]
日本で最初の年号は645年の大化であるというのが通説であるが、二中歴にはこれより古い年号の記述がある。これらの元号は単なる言い伝えであり、実際には存在しなかったとも読める記述も同時に見られ、古代の元号が存在したかどうかは議論が続いている。また、古田武彦はこれらを九州年号だと主張しているが、査読を経た論文は存在しない。

古将棋 [編集]
将棋の歴史を知る上でも、二中歴は重要な資料である。二中歴には平安時代に遊ばれたと見られる大小2種の将棋について記されており、現代では平安将棋および平安大将棋と呼ばれている。

関連書籍 [編集]
二中歴1 第一?第四(尊経閣善本影印集成)ISBN 4-8406-2314-7
二中歴2 第五?第十(尊経閣善本影印集成)ISBN 4-8406-2315-5
二中歴3 第十一?第十三(尊経閣善本影印集成)ISBN 4-8406-2316-3

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2009年03月21日

個室A寝台「シングルデラックス」のオロネ25形

この関係で個室A寝台「シングルデラックス」のオロネ25形はオロネ15形3000番台に改造する必要があるため、下りは1月14日?2月28日、上りは1月11日?2月28日の間連結を中止。
このダイヤ改正で「さくら」が廃止され、1,315kmの運行距離を有する「はやぶさ」が定期列車の日本一の長距離列車の座に2度目の返り咲きを果たした。また「あさかぜ」廃止に伴い、当時47年継続という国鉄→JRの現役特急愛称としての最長1位にも躍り出た。
しかし、「はやぶさ・富士」の運行形態は1963 - 1964年の「みずほ」に近い運行形態とされ、東京駅 - 京都駅間では「(東京対)九州特急」・「九州ブルートレイン」は1往復のみの運行となった。
また国鉄時代から全区間を担当していた博多車掌区・熊本車掌区(現・熊本車掌センター)の乗務区間が九州内に短縮され、本州内の乗務を下関地域鉄道部下関乗務員センターが担当した。
なお、運行変更に伴う車両回送は以下のような手順で実施。
2005年(平成17年)3月1日 - 定刻に東京駅到着後、田町車両センターへ回送し旧「さくら・はやぶさ」、旧「富士」の14系客車を分割後、2編成併結の上、下り「はやぶさ・富士」とする。24系客車については3月2日発で品川から熊本へ2編成併結で返却回送。
2009年(平成21年)2月 列車廃止間近の特需への対応策として、上り列車の熊本駅→博多駅間を、乗車券と指定席特急券でB寝台に乗車を可能とした。[6]。
2009年3月13日 - 同日始発駅を発車した列車をもって「富士」と共に廃止[1][2][3]。これにより東京駅発着の客車寝台特急は全廃。ただし、同駅発着の寝台特急全体で見れば285系電車「サンライズエクスプレス」で運行する「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」は引き続き残ることとなる。

列車愛称の由来 [編集]
(五十音順)
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

「霧島・きりしま」 - 鹿児島県と宮崎県の県境に広がる火山群である霧島山から。なお霧島連山、霧島連峰、霧島山地、霧島火山群の異称があるが日本語版Wikipediaにおける項目では「霧島山」が採用されている。曖昧さ回避記事の霧島も参照。
「桜島」(さくらじま) - 鹿児島県の錦江湾(正式には鹿児島湾)にある半島であり活火山でもある桜島から。海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの1つとされる。
「さつま」 - 現在の鹿児島県西部に相当する令制国(いわゆる旧国名)の薩摩国から。
「筑紫」(つくし) - 現在の福岡県東部を除く部分に相当する令制国(いわゆる旧国名)の筑紫国または、日本神話の国産みにおける「筑紫島」と呼ばれた九州全域を指す「筑紫」に由来する。ただし、一般的には前者のみとされる。
「はやぶさ」 - 鳥のハヤブサにちなむが運行開始当初では特別急行列車の愛称として鳥類のものが充てられただけではなく、東京駅 - 大阪駅間ビジネス特急の愛称として公募した際に佳作として選定され特別急行列車に使用することが決定されていた名称でもある。また、鹿児島県の男子を指す美称「薩摩隼人」にちなむ命名とも言われている。
「みずほ」 - 日本国の美称でもある、「瑞穂国」(みずほのくに)にちなむ。ただし、特別急行列車の愛称には抽象名詞を用いるという慣例があったことや戦前の特別急行列車愛称公募時に日本の意味合いがある「大和」があるため、それによるものともされる。

廃止直前の運行概況 [編集]
運行区間
東京 - 熊本間:1315.0km(下り列車は新垂井経由のため、実走行キロは1317.9km)
列車番号
列車番号は、運転線区等により異なる。
東京 - 門司間は併結相手の「富士」に合わせて1・2で、下り=1、上り=2となる。
門司 - 熊本間は41・42で、下り=41、上り=42となる。
担当車掌の所属組織
上下列車とも車掌は本州内の全区間を西日本旅客鉄道(JR西日本)が、九州内をJR九州が担当する。
東京 - 下関間:下関地域鉄道部下関乗務員センター
下関 - 熊本駅間:博多車掌区
運転士は各旅客会社が自社区間を担当する。ただし、下関 - 門司間は日本貨物鉄道(JR貨物)門司機関区が担当する。

停車駅 [編集]
●:停車。
↓・↑:通過(矢印方向に運行)。
(運):運転停車。
( ):臨時停車。
下りの下松駅→熊本駅間では、乗車券と立席特急券でB寝台に乗車することが可能であった。表では、■の地色部分で表記されている。

客車概要

熊本車両センターに所属する14系客車が使用された。
運用的には「スハネフ14(15)形-オロネ15形3000番台-オハネ15形2000番台-オハネ15形-オハネ15形-スハネフ14(15)形」1編成を上り「はやぶさ」→下り「富士」→上り「富士」→下り「はやぶさ」とする運用を組み合わせる形で使用されていた。
「富士」「はやぶさ」に使用されている14系の製造時の形式は、14系14形が5両(スハネフ14形0番台)、14系15形が9両(スハネフ15形、オハネ15形0番台)、24系24形が1両(オハネフ24形を改造したスハネフ14 101)、24系25形が16両(オロネ15形3000番台、オハネ15形2000番台、オハネ15形1100番台)と20系を除く旧国鉄が設計・製造した寝台特急用客車の全形式にわたっていた。
このため、趣味的に見ると、銀帯の車両が多数派となっているが、もともと白帯であるスハネフ14形に加え、更新改造時にステンレスによる銀帯を白帯塗装に変更した15形車両も存在するため、帯の色が統一された編成となることはほとんどなかった。運行廃止直前の時点では、スハネフ14形、スハネフ15形の一部、オハネ15形1100番台が白帯、スハネフ15形の一部、オハネ15形0番台、オハネ15形2000番台、オロネ15形3000番台が銀帯となっていた。
後述するが、1993年(平成5年)3月17日以降列車内での供食設備となる食堂車は連結されていない。この列車では、以下の区間で車内販売が実施されていた。

なお、車内販売は6・7号車から巡回した。

上り:名古屋 - 東京間
下り:東京 - 名古屋間 ・ 徳山 - 博多間
販売品目はコーヒーやジュース・弁当・菓子など。その内容は上り・下りで違った。下り列車の徳山 - 博多間では「徳山幕の内弁当」や「ふくめし」・「あなごめし」などの弁当が販売されていた。

また下り(熊本・大分行き)「はやぶさ・富士」では柳井駅水了軒の「特製幕の内弁当」が1日5 - 10個ほど限定発売されていた。ただし、列車が遅れた場合はこの弁当は販売中止となった。

上り列車の場合、機関車の交換と「富士」の連結作業のため門司駅で29分間停車した。門司駅には改札内に売店等はないが改札外にコンビニエンスストアがあり、改札係員に乗車券類を提示すれば一旦改札外に出て買い物をすることができた。通常は出場した時点で特急券・寝台券は無効となるが便宜上このような取扱がなされており、車内放送でもそのように案内をしていた。

2009年03月06日

リンカーンの登場

当初、ニューヨーク州のウィリアム・スワード、オハイオ州のサーモン・チェイスおよびペンシルバニア州のサイモン・キャメロンが共和党の大統領候補として有力であった。しかし、エイブラハム・リンカーンは下院議員を1期のみ務めただけだったが、1858年のリンカーン=ダグラス討論で名声を獲得し、党内に政敵がほとんどいなかったこともあって、他の候補者を凌いだ。1860年5月16日、リンカーンはイリノイ州シカゴでの党大会で共和党の指名を勝ち取った。

レコンプトン憲法に関する議論が元で民主党は分裂し、南部の「けんかっ早い人」は民主党の候補指名競争で先頭を行っていたスティーブン・ダグラスの指名に反対した。南部の者達は党を去り、6月にジョン・ブレッキンリッジを指名した。一方北部の民主党はダグラスを支持した。この結果、南部の農園主層は国政を支配する手段を失った。民主党の分裂により、共和党の候補者は分裂した対抗馬と争うことになった。

リンカーンにとって都合の良かったことは、境界州の元ホイッグ党員が早くから立憲連合党を結成し、大統領候補にはテネシー州のジョン・ベルを指名したことである。このために各党指名候補は地域に偏った選挙戦を展開することになった。ダグラスとリンカーンは北部で、ベル、ブレキンリッジおよびダグラスは南部で争うという形であった。

「農場のために投票せよ、関税のために投票せよ」が1860年の共和党のスローガンであった。総じて実業家は農夫の土地に対する要求を支持し(工場労働者の集団にも人気があった)、その見返りに高い関税の支持を得た。1860年の選挙は産業革命によって解き放たれた新しい社会的階層の政治力をある程度まで高めた。1861年2月、アメリカ合衆国から7つの州が脱退した。4月から5月にさらに4つの州が脱退した。メリーランド州だけは戒厳令が布かれたために脱退できなかった。議会は北部が圧倒的多数となり、モリル関税を成立させた(ブキャナンが署名した)。これは関税率をあげ、政府が戦争を遂行する費用を手当するためであった。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ

南部の脱退
サウスカロライナ州が脱退した後の動きについては、サムター要塞の戦いと南北戦争を参照

1850年代半ばまでに共和党が台頭しアメリカとしては初めて絶対多数を占める党になったことで、政治は党派的な緊張関係が尽きてくる段階に入った。党派的な緊張関係の焦点であった西部の土地の多くは綿花の栽培に適していなかったが、南部の脱退指向派は自分達の国政における力が急速に弱っている兆候としてその政治的な決着を読み取った。以前は、奴隷制が民主党によってある程度強化されていた。民主党は南部寄りの姿勢を強く表すようになってきており、国の新領土を南部の者達が支配しようとしたときも容認し、南北戦争前までは国策を支配していた。しかし、民主党は1850年代半ばの選挙区調整で重大な逆境に立った。1860年は有権者集団の中で既存の党に忠実であった者達の模様を大きく変えさせた重大な選挙であった。リンカーンの選出は、国と地方の利益および依存関係において競合する力のバランスを変える分岐点となった。

選挙の行方が確実になってくると、サウスカロライナ州は特別会議を招集して、「サウスカロライナ州とアメリカ合衆国の名の下にある他の州との間に存続した連合は解消された」と宣言し、1861年5月21日までの他の南部10州脱退の先駆けとなった。連邦議会では南部による反対が無くなり、共和党は妥協を生むような方法で南部の要求を満足させる必要がなくなった。

2009年02月14日

Natural Another One

セロジネ ソラサ よどがわ リンネル マント チクング コスパ バックル マグニチ シンメト パトロール ナイト こだわ ブラック きえい イコライザ チューバ ミディサ ミオシン アケビ レッド 満龍 銀龍日本 ナイト シグマ ケマンソウ トハート スライダー セレシン おとずれ セーフ クサギ ナイト もろきゅ ローブ ナント テレマー デュー トロート ルシフ すげがさ ネオダマ 缶けり ドラム 山もみじ ドロップ プレス ニコラ トップ ハウンド

風早 薫(かざはや かおる)
本作の主人公でありプレイヤーの化身。外面が良く、予備校とはいえ講師らしく口調は非常に丁寧。才気に溢れ、周囲からの人望も厚い。しかし、自らの「乾き」を満たすために時に冷酷な振る舞いを見せる。
彼の家族は彼を出来の悪い男とみているようで、彼自身も同様に家族を蔑み、嫌っている。また、母違いの兄がいるが、母違いのためか非常に仲が悪い。
ゲーム開始時点で名前の変更が可能。
湖川 水緒(こがわ みなお)
主人公が勤める予備校の生徒。主人公のことが好きなあまりすすんで奴隷となる健気な少女。
牧瀬 遥(まきせ はるか)
主人公の婚約者。お嬢様。幼いころから、叱られるためにわざとイタズラをするほどの筋金入りのマゾ。ただし、育ちの良さによって普段はその素振りを一切見せない。それが逆に彼女の中でその性癖をより大きくすることとなる。
かつて、「樹」と交際していた主人公「風早草平」。彼の所に、大学の理事である「八千草鉄男」が依頼を出した。その依頼とは、数日前に亡くなった自分の父「八千草隆三」と結婚していた樹に、遺産の相続を放棄させるよう説得するという物であった……。
風早 草平(かざはや そうへい)
主人公。大学生だがあまり大学に顔は見せない。女性遍歴は多いが樹に関しては別れた後も特別視している。母違いの弟がいるが、母違いのためか非常に仲が悪い。
八千草 樹(やちぐさ いつき)
声:かわしまりの
草平と昔交際していたが、家のために隆三の元へ嫁ぐ。そのため遺産相続順位の筆頭となっている。
硯 碧葉(すずり あおば)
声:風音
八千草家に使えるメイドで、現在は樹専属。草平に敵対的な言動をし、八千草家以外の人間に対し総じて物騒な態度をとることが多い。
八千草 響果(やちぐさ きょうか)
声:中家志穂
隆三の娘である双子姉妹の姉。小さい頃の事故の影響で言葉を失っている。草平は表向きには彼女の家庭教師という立場。
八千草 蜜音(やちぐさ みつね)
声:中家菜穂
隆三の娘である双子姉妹の妹。小さい頃の事故の影響で、明るいところでは目が見えない。
月原 美園(つきはら みその)
声:吉川華生
大学の先輩。草平とは昔から複雑な関係。SとMを地で行く。
八千草 鉄男(やちぐさ てつお)
声:荒木幸男
草平が通う大学の理事。隆三の長男であるため本来は相続順位は高いはずだが実際は違うようだ。
八千草 隆三(やちぐさ りゅうぞう)
声:高岡政人
数日前に亡くなった、八千草グループの当主。妻を亡くした後、晩年は樹と結婚していた。

2009年01月27日

ポリカルポフ I-185

ポリカルポフ I-185 (ロシア語:Поликарпов И-185、ラテン文字表記の例:Polikarpov I-185)は1941年にソ連で試作された戦闘機である。単座単発の低翼単葉機で、胴体は半モノコック構造の合板製、主翼はジュラルミン製だった。エンジンは空冷星型14気筒のシュベツォフ M-82 と空冷星型18気筒のシュベツォフ M-71 の二通りがあり、プロペラは直径3.2mの三翅のものを使用していた。飛行試験では優れた結果を残したが、エンジンの問題や政治的理由などにより量産されることはなかった。

1939年、ソビエト空軍は、国外の新型機に対抗可能な近代的な単葉戦闘機を必要としていた。I-15 や I-16 といった主力戦闘機の設計を手掛け、「戦闘機の王様」と呼ばれたニコライ・ポリカルポフは当時最も有力な設計者だったが、彼を取り巻く環境は決して楽な物ではなかった。彼の設計局は縮小移転され、彼が手を付けた I-200 戦闘機(後のMiG-1)の開発はミコヤン・グレビッチ設計局に移管されてしまった。I-16 戦闘機の改良型として製作された I-180 は多くの問題を抱え、ポリカルポフ自身も、1938年の試験飛行中の墜落事故でテストパイロットとして搭乗していたソ連邦英雄のヴァレリー・チカロフを死亡させたため、当時のソ連の主導者スターリンから信頼されなくなっていた。しかしこのような逆境にあっても、彼は航空機の設計作業を止めることはなかった。

ポリカルポフは1939年にドイツに航空産業の見学に訪れ、フォッケウルフ Fw 190 のような国外の新鋭機に対抗するためには、当時開発中だった大出力の複列星型エンジンを戦闘機に搭載することが必要不可欠だとの確信を得た。彼は1940年のはじめ、I-180 をベースに、1750馬力のトゥマンスキー M-90 エンジンを搭載する I-185 を設計した。最初の原型機は1940年5月25日に完成したが、その時点で入手可能だった唯一の M-90 は飛行試験には使える物ではなかった。そこでより大型で2000馬力を発揮するシュベツォフ M-71 エンジンを搭載するように設計が変更されたが、このエンジンも間に合わず、結局1600馬力のシュベツォフ M-81 を搭載するように再度の改設計が必要になった。ポリカルポフ設計局へ届いた M-81 は欠陥品で開発はさらに遅れ、1941年1月11日に、ようやく試作機 I-185 (M-81) が初飛行に漕ぎ着けた。ところが飛行試験でエンジンの異常振動が発生し、I-185 (M-81) の開発は早々に放棄されることになった。試作機はエンジンを M-71 に戻して I-185 (M-71) に作り変えられ、1941年5月29日に再飛行した。別に作られたもう1機の試作機は4月8日に飛行した。1941年夏には1700馬力のシュベツォフ M-82 エンジン(後にASh-82と改名)を搭載し、20mm機関砲3門を装備する I-185 (M-82) が2機製造された。

1941年10月、ドイツ軍の侵攻から逃れるため、I-185 はポリカルポフの第51工場からノボシビルスクに疎開した。1942年3月の政府によるトライアルでは、I-185 は極めて優れた結果を示した。I-185 (M-71) の最高速度は630km/h、I-185 (M-82A) の最高速度は615km/hに達し、操縦も容易であった。結論は、I-185 (M-71) は当時の他のあらゆるソ連の戦闘機より優れており、I-185 (M-82A) も (M-71) 程でないにしても、それに次ぐ性能を持っているというものだった。1942年6月には実際の量産を想定して組み立てられた5号機(M-71搭載)が完成したが、これは最高速度が667km/hに達した。

1942年、I-185 の試作機を戦場でテストすることが決定され、I-185 (M-71) と I-185 (M-82) 2機ずつが、1942年12月9日から1943年1月13日の間カリーニン戦線に展開する第3航空軍の第728親衛戦闘機連隊で運用された。試作機を失わないよう空戦行動や敵占領地区上空の飛行は禁じられた。パイロットは I-185 を絶賛した。特にその速度性能(Yak-7B や La-5 よりも早く、当時のソ連の戦闘機の中では最高だった)や、大出力のエンジンが生み出す垂直方向の機動性、強力な武装、操縦の容易さは際立っていた。I-185 の飛行特性は I-16 のそれに似通っており、機種転換が簡単という点も重要だった。実地テストの結果、I-185 に小改良を加えて量産するよう勧告された。

時を同じくして、政府によるさらなる試験が進められていた。I-185 (M-71) の最高速度は、一部の試験飛行では、700km/h を超えることもあったと報告されている。結果は非常に満足のいくもので、テストパイロットがスターリンに対して I-185 の優秀さを説明し、可能な限り早い段階での量産開始を求める手紙を書くほどであった。1943年2月にはモスクワの第81工場で I-185 の大量生産の準備が始まった。しかし同年4月5日、I-185 (M-71) の試作機がエンジントラブルのために墜落事故を起こし、同じ月に生産準備作業は一転して中止された。公式な理由は、新型機を導入することで一時的に戦闘機全体の生産性が低下する恐れがあるというもので、M-82 エンジンは既に La-5 戦闘機に使用されており、M-71 エンジンは、一応使用可能なレベルではあるが、まだ故障がちという問題もあった。しかし、他の設計局からの圧力や、スターリンがヤコブレフやラボーチキンを好んだことなど、政治的理由も多分に影響したものと思われている。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

ポリカルポフはこれにもめげず、I-185 を改良する作業に取り掛かった。I-187 は 出力が2200hpに向上した M-71F エンジンを搭載し、後方視界に優れる水滴型風防を採用していた。武装は20mm機関砲4門に強化され、最高速度は710km/hを見込んでいた。他には2080馬力の改良型ツマンスキー M-90 エンジンを搭載する I-188 や、最高速度591km/hの I-195 複葉戦闘機、複座練習機型の DIT-185 が提案されていた。しかし、1944年7月30日、ポリカルポフは食道癌のため52歳でこの世を去り、I-185 の開発は終わりを告げた。ポリカルポフ設計局直属の第51工場は、スホーイ設計局の拠点となった。

型式
I-185 (M-81): 出力1600馬力の シュベツォフ M-81 エンジンを搭載する試作機。1機だけ製作され、1941年1月11日に初飛行した。エンジンの振動問題が解決できなかったため、後に I-185 (M-71) に改造された。
I-185 (M-71): 出力2000馬力の シュベツォフ M-71 エンジンを搭載する試作機。1機が I-185 (M-81) から改造され、2機が新造された。初飛行は1941年4月8日。機体によって異なるが、630km/h?700km/hの最高速度を発揮した。1943年4月に墜落事故によって1機が失われている。
I-185 (M-82): 出力1700馬力の シュベツォフ M-82 エンジンを搭載する試作機。2機が製造され、最高速度は615km/hだった。
I-187: 出力2200馬力のシュベツォフ M-71F エンジンを搭載する計画機。水滴型風防を使用し、武装は20mm ShVAK 機関砲4門、最高速度710km/hを予定していた。
I-188: 出力2080馬力の改良型ツマンスキー M-90 エンジンを搭載する計画機。
I-195: I-185 をベースに設計された複葉機。複葉機最速の 591km/h を目指したが計画のみ。
DIT-185: I-185 の複座練習機型。計画のみ。

諸元(I-185 (M-71))
以下のスペックに関する文献などの情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。
諸元
乗員: 1名
全長: 7.77 m (25 ft 6 in)
全高: 2.50 m (8 ft 2 in)
翼幅: 9.80 m (32 ft 2 in)
翼面積: 15.53 m2 (167.1 ft2)
空虚重量: 2654 kg (5840 lb)
運用時重量: 3500 kg (7700 lb)
動力: シュベツォフ M-71 レシプロ空冷星型複列18気筒, 1492 kW (2000 hp) × 1
性能
最大速度: 630 km/h (391 kt)
航続距離: 835 km (519mi, 451海里)
実用上昇限度: 11000 m (36080 ft)
上昇率: 16.1 m/s, 966 m/min (52.8 ft/s, 3169 ft/min)
翼面荷重: 225 kg/m2 (46 lb/ft2)
馬力荷重(プロペラ): 0.426 kW/kg (0.571 hp/kg, 0.260 hp/lb)
武装
固定武装: 20mm ShVAK 機関砲 × 3
爆弾: 250kg 爆弾 × 2 または 100kg 爆弾 × 4 または RS-82 ロケット弾 ×8
使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

Abanshin, Michael E. and Gut, Nina. Fighting Polikarpov, Eagles of the East No. 2. Lynnwood, WA: Aviation International, 1994. ISBN 1-884909-01-9.
Gordon, Yefim and Khazanov, Dmitri. Soviet Combat Aircraft of the Second World War, Volume One: Single-Engined Fighters.Earl Shilton, Leicester, UK: Midland Publishing Ltd., 1998. ISBN 1-85780-083-4.
Green, William. Warplanes of the Second World War, Volume Three: Fighters. London: Macdonald & Co. (Publishers) Ltd., 1961 (seventh impression 1973). ISBN 0-356-01447-9.
Green, William and Swanborough, Gordon. WW2 Aircraft Fact Files: Soviet Air Force Fighters, Part 2. London, Macdonald and Jane's Publishers Ltd., 1978. ISBN 0-354-01088-3.
Guglya, Yu.A. and Ivanov, V.P. (Гугля, Ю.А., Иванов, В.П.) "Rokovoi I-180" ("Роковой И-180") ("The Fatal I-180") (ロシア語). Aerohobbi nr.1/94, 1994.
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Léonard, Herbert. Les avions de chasse Polikarpov. Rennes, France: Éditions Ouest-France, 1981. ISBN 2-85882-322-7. (French)
Léonard, Herbert. Les chasseurs Polikarpov. Clichy, France: Éditions Larivière, 2004. ISBN 2-914205-07-4. (French)
Maslov, Mikhail (Маслов, Михаил). И-180 / И-185 (I-180/I-185) (ロシア語). Moscow: Tekhnika-molodezhi; Vostochnyi gorizont, 2003.